中村俊輔引退試合~SHUNSUKE NAKAMURA FAREWELL MATCH~記者会見全文
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2023.12.17 Sun
12月17日(日)に行われた「中村俊輔引退試合~SHUNSUKE NAKAMURA FAREWELL MATCH~」の中村 俊輔氏記者会見全文を公開いたしました。
記者会見全文
ーー引退されてから少し時間が経ちましたが、最後の引退試合を終えて今のお気持ちをお聞かせください。
色々な選手たちや、試合に辺って動いてくれたスタッフ、来てくださったファン・サポーターの皆様に、おもてなしではないけれど、楽しくできたかなというプレッシャーからは解放された気持ちです。
ーー俊輔さん自身も、一緒に色々な選手とプレーするのが楽しく見えていたが試合中の感想をお聞かせください
本当に楽しかったです。J-DREAMSは年を取ったなと(笑)。三ツ沢でプレーできたことが、サッカーできたことが、思い出させてくれました。楽しかったです。
ーーご自身のプレーを振り返って。
皆さんが頑張ってくれて、鈴木隆行さんがファウルをもらってくれて、演出ではないですけど(フリーキックの機会を)作ってくれたので。僕の師匠である(川口)能活さんを自分と反対側のチームにメンバー入りさせてもらって対決できたので、引退試合とはいえ真剣勝負でやってくれました。1点目は入っていないと思いますけど(笑)さすがだなと思いました。2本目はもっと力を入れました。そういうのが楽しかったです。
ーー選手としてではなく、次は指導者として中村俊輔の次の目標をお聞かせください。
プレーヤーの時みたいに大きな中期・長期の目標が設定できないくらい、指導者に対して難しさや細かさを感じているので、目の前のことを一つ一つやって勉強していきたいと思います。
ーー川口能活さんのお話がありましたが、最後のセレモニーでの能活さんからのメッセージをどんな想いで聞いていましたか?
本当に尊敬するプレーヤー・人間ですし、そういう方からメッセージを頂けるのは嬉しいです。ほとんど今日来てくださった選手が戦友と呼べる方たちであったので良かったです。特に能活さんは僕が入団した1年目からお世話になっているので、思い入れはすごくありますね。
ーー戦友という言葉が出たが、今日のメンバーはライバルと呼べる選手がたくさん揃ったが、ご自身の現役生活の中で同じポジションの選手と競う選手はどういう存在でしたか?
若いころは(小野)伸二でしたね。代表を意識し始めたころはヒデ(中田英寿)さんでした。森島寛晃さんのような動きが自分に足りない。この3人はいつも意識してやっていました。どういう存在かというとライバルではないです。ヒデさんは雲の上の存在ですし、伸二は自分にないものをいっぱい持っているので、彼らにないものを自分で磨き上げないと代表で生きていけないことを意識してプレーしていました。そのうちの一つがフリーキック。運動量であったり、中盤の選手はほとんどそういう意識でプレーしていたと思います。そういう選手たちがいたからこそ自分が成長できたと思います。
ーーフリーキックの話がありましたが、指導者になって俊輔さんのようなフリーキッカーを育てるには何が必要か?
蹴り方はプロになってから変わらないので難しいが、意識を変えることはできると思うので、そのシチュエーションを練習で作ることです。あと責任を持たせることです。少しずつ環境・場面を作り上げることはできると思います。中学生くらいの時でないと、フォームや当てる感じが身につかないので、積みあがっていかないのでスタートが大事だと思います。中学生や高校生を見たときにそれが大事だと思います。それを意識してプレーできている選手が少ないので、そういうシチュエーションを作るのに何が必要か試行錯誤しています。ジーコや木村和司さんであったり、超一流のフリーキッカーの方は一言も僕に何も言わなかったので、じっとずっと見守っています。止めないですし、見守る指導というか、そういうのが良いのではないかと自分では思っています。
ーー大好きな三ツ沢でのプレーで思い出すことがあると言っていたが、選手として三ツ沢のピッチに立って込み上げてきた思いをお聞かせください。
小学校の頃は三ツ沢が決勝の舞台であったし、高校の決勝も神奈川県は三ツ沢だったので、プロに入っても三ツ沢がホームでした。地元にJリーグのチームがあることは非常に運が良かったと思います。愛着が沸きますね。世界一と言っているが、世界一好きな場所ですね。ここでやったことありますか?めちゃくちゃ良いですよ。お客さんとの距離も近いし、芝も良いし。昔から知っているじゃないですか?コンクリートの時から。ということです。
ーー昔から変わらないところはありますか?
少しづつ進化しているが、ウォーミングアップ室が芝になったり、座席が(コンクリートから)青くなったりしていますが、変わらないことが良いと思います。
ーー残念ながら試合出場が叶わなかった松田直樹選手、奥大介選手がメンバー入りしています。試合中に映像がビジョンに流れていたが、想いをお聞かせください。
松さんは僕が入った若いころからずっと面倒見てくれて、僕がサッカーばかりやっていたので、「お前サッカーばっかやっていたらだめだ、世間知らずだな」と、いろいろな方と会わせてくれたり、食事に行ったり、その先でサッカーの話をずっとしていて、僕を成長させようとしてくれた方でした。大さんは、自分が移籍してきて横並びで一緒にプレーしていたんですけど、横並びで一緒にやってよかったのは、伸二とワールドユースで一緒にプレーした大野(敏隆)、と大ちゃんだったので、そのくらい息が合う感じでした。練習中や試合の時も靴下を下げてふくらはぎを見せて楽しくやって、いつも自分に気を遣ってくれました。サッカーの阿吽の呼吸があって、自分の能力を引き上げてくれた人なので、一緒にプレーしたいという気持ちがあって、こういう形でやらせていただきました。
――スタンドでファン・サポーターが過去の所属クラブのユニフォームを着ている光景を見て感じたこと。
最後に周回しているときに、そういう場面がいっぱいありまして、なんか・・・嬉しかったですね。報われたというか、忘れられないということが所属していた時にいいプレーやそれだけではないものも含め、心に響くようなプレーができていたのかなと、確認ができました。それは1周している間に感じ取れたので非常にありがたかったです。
――改めてご自身にとってフリーキックはどういうものでしょうか?4本すべて枠内に飛ばされていましたが、精度へのこだわりなどもお聞かせください。
PK外したからね。恥ずかしいからやめて(笑)フリーキックは自分のプレーの中で1割に満たないくらい他のプレーのどこでボール受けるとか、ポジショニングやボールが来る前に必ず2~3個はパスコースを見つけておくとか、そういうたくさんある中での1割に満たない中での自分の中での意識で、飛び道具にしかすぎないけれど、それでもすごく大事にしていた最後に残ったものがそれだったので、大事にしていてよかったと感じています。うーん、こだわり・・・結局フリーキックやセットプレーで日本代表でもいろんなクラブでもゲームが動くことは多かったと思うのでそこへの責任感はプロ一年目で身に付いたかなと思っています。1年目でキッカーに選ばれていたし、中に合わせる選手の方々が偉大な方々なのでピンポイントでやらないといけないから、発想が出てくる。仲間にいい選手がいたので自分は能力を引き出していただいたという感覚です。取材でもよく言いますけど、壁に日本代表だった方々が並んだら絶対にぶつけたらいけないじゃないですか。だから上を超えて落とさないといけない、その先に能活さんがいるから決めなきゃいけない。すごくハードルの高い中で練習をさせていただいたのは、自分が伸びた要因です。その一つがフリーキックです。
――幼稚園の頃から横浜深園SC、横浜マリノスジュニアユース、桐光学園高等学校でプレーして、育成年代の指導者の方々へメッセージはありますか?その方々から受けた指導で今ご自身の指導者生活に活かされていることはありますか?
若林先生は今日もいらしていたんですが、厳しい方でしたが情熱は自分も負けるのが嫌いだったので同じ熱量でやられていましたし、自分はばしっとはまった時だっと思います。夢ある限り道は開けるとか、ミスは許すけどサボりは許さないとか、あとは基本技術をすごくやる方だったのでそれは僕にとってすごくよかったです。ジュニアユースのときは、樋口コーチでトップでも一緒にやった方で、ほめるのがすごく上手で、人間なんでほめられると嬉しいじゃないですか、それはすごく今に活きているなと思っています。ほめるタイミングや質など、全部が全部ほめるではなくてタイミングと、そうすると選手はここ見てくれているんだって安心感があるし、そういうものを自分は今身に付けたいと思っています。桐光学園では佐熊先生。多くを僕に要求はしないんですけど、僕がフリーキックの自主練をしているときに、ナイターだからライトを消して帰りたいじゃないですか(笑)。俺がずっとやっているんでなかなか帰れないのにずっと待ってくださったり。あとは高校の部活ということもあって、いろんな規律や全体のマネジメントは参考にしたいところであります。プロになってもいろんな監督さんに会いましたけど、いざ自分がこの立場になった時に何かプラスになるものはないか、得るものはないかと思い出してみたり、サッカーのプレーと一緒で真似してみたりいろんなことをこの1年してきましたし、この先もしていきたいと思っています。
――指導者になられて勉強中の身だとおっしゃっていましたが、伝えるという立場になってサッカーの奥深さや面白さに気づいたことなどはある?
よく言語化しないとというのはあるんですけど、自分がサッカーをやってきて一番監督さんとの信頼関係ができたのって、どちらかというと多くを語らない方で、自分のことを見てくれている。そういう人間関係の作り方のほうが難しいけど、いい方向へ向かうパターンとか確立のほうが多いのではないかなと自分は選手時代含めて感じています。今監督でもヘッドコーチでもないそれを支えるコーチという立場なのでいろいろ難しいんですけど、例えばハーフタイムに横浜FCが勝てない時期に選手がロッカーに戻る選手、泣き崩れているなかなか立ち上がれない選手がいる中で、自分はこの役目だと思って、ここでその選手たちとしゃべらないで一緒に座ってみたり、切り替えて風邪ひくから着替えてという言葉をかけたり、今の自分でしかできないことを探して、だからこそトップにいさせてもらっているのは、そういうことで。現場にいたい、自分を活かせるのは現場だと思って行動しています。言葉も大事だと思うのでそこも勉強していきたいと思います。
――昨季の引退会見で指導者の道を志すとおっしゃられてから、桐光学園時代の佐熊監督、横浜深園SCの同級生の広瀬さんなど色々な方々へお話しをうかがう中で第二の中村俊輔を作っていってほしいと口をそろえておっしゃっていて、これからのユース世代へ向けてどんな要素があればいい選手が生まれる、ご自身が指導する中で第二の中村俊輔を育てたい?
うーん・・・指導者というところだけでは限界があると思うので、家の環境だったりいろんなことを含めてマネジメントをしてあげるのは大事だと思います。僕は自分だったらこうしたのに、自分だったらこうだったなどは消すようにして日々指導しています。ひとりひとり体格も考え方も性格も違うので彼らに寄り添う、彼らに溶け込もうとするということを意識しています。今季の横浜FCで言うと(井上)潮音なんかは、すごい変わりました。それを変えようと思って接するんじゃなくて、何気ない日常のなかで少しずつ、少しずつサッカーの楽しさや、「潮音今あれよかったわ」とか何気ない、そういうことの繰り返し。もちろんファーストコーチや監督だったらプレーのもっと細かいところまで言えますけど、自分の立場でそこまでは言えないので、そういう接し方だと思います。樋口さんなんかは最高の味方をしてくれるんで僕は手の上で転がされたうちの一人だと思います(笑)。僕が極限のスルーパスを出した時、ベンチで「しびれるよーー!」っていうんですよ。そっち見るとベンチでしびれてるんですよ(笑)。めちゃくちゃうれしいじゃないですか。「今の見た?」ってベンチの子に言っていたり「逆見てても、アウトサイドで蹴ってたね」ってサッカーのうれしさや楽しさを共感しあえると、それがどんどんチームとして大きくなっていくと思うんでそこらへんを大事にしたいです。
――以上で中村俊輔引退会見を終了いたします。
ありがとうございました。