ガツンと相手に当たる球際の強さ、柔らかいボールタッチ、パスコースを作る空間察知能力……。
“サッカーの奥深さ”を体現する和田拓也のプレーは、噛めば噛むほど味が出る。
「自分は決して華やかな選手でも、特別な選手でもない」
それでも高校卒業から16年間プロの世界を戦い、この横浜FCでも与えられたタスクを黙々とこなす、“隠れた天才”のルーツに迫る。
調和を生み出す、寡黙なマルチローラー
和田 拓也 MF 6
取材・文=北健一郎、青木ひかる
地元は神奈川県の藤沢市。自転車を走らせればすぐに海岸沿いに着く、“湘南エリア”で和田は生まれた。
出身地を答えると、決まって「小さい頃はずっと海で遊んでいたの?」「サーフィン三昧だったの?」と質問されるというが、一番好きだったのは昼よりも、夕暮れから夜にかけての海だったそうだ。
「特に中高生の頃は練習があってアルバイトとかもできなかったから、お金のかからない遊び場でもありました(笑)。小さい頃に砂場で遊んでいた記憶よりも、そっちの記憶の方が強いかもしれないです」
1990年に生まれ、幼少期は開幕したばかりの“Jリーグブーム”全盛期だった年代だが、両親がバスケットボール部だったということもあってか、意外にもサッカーへの興味や関心はそこまで高くなかったという。
「ボールを蹴り始めたのも小学生になってからでした。最初は休み時間に友達とサッカーをする程度だったところから、『スポーツをやるならサッカーがいい』と言って、通っていた小学校のチームに入ったことがきっかけだったと思います」
主戦場は前線。
ただ、同学年の選手が4、5人しかいないというチーム事情もあり、6年間でGK以外の全てのポジションを経験した。
「やるからには上を目指したかったし、プロになりたいと思ってはいましたけど、今とは全然プレースタイルも違ったし、秀でた何かがあったわけではなかった。だからといって、プロになるために逆算してここを磨いておこう、みたいな考えもあんまりなくて。未来のことよりも、今目の前のことをとりあえずやっていこう。というタイプでした」
特別な強みがあったわけではないと本人は話すが、指示をピッチで的確に再現し、のちにプロの世界で複数ポジションをこなす適応力の高さは、この時からすでに片鱗を見せていた。
そんな和田のポテンシャルを見抜いたのは、Jリーグ屈指の育成力を誇る東京ヴェルディだった。
「最初は進路先も神奈川のチームしか考えていませんでした。でも、小6から(横浜F・)マリノスのスクールに通いはじめたもののジュニアユースには入れず、どうしようかと悩んでいた時にひとつ上の先輩がヴェルディのジュニアユースに入ったということを聞いて、『あ、東京という選択肢もあるんだな』と。そこから練習に参加させてもらって、そのまま加入が決まりました」
練習場までは、片道およそ1時間半。
往復3時間電車に揺られる日々とともに、和田のサッカーキャリアが本格的にスタートした。
今でこそ各Jクラブがアカデミーを保有し、生え抜き選手を育成する“エリート組織”として機能しているが、2000年代前半はまだその土壌も発展途上。
それでも、東京ヴェルディユースは当時からトップチームと密なつながりをもち、圧倒的な強さを誇っていた。
傾向として、技巧派な選手を輩出するイメージも強いヴェルディだが、中学1年生の和田はこのチームで単純な「うまさ」だけではなく「サッカーの楽しみ方」を知ることができたという。
「とにかく選手に判断が委ねられていて、『こういうプレーをしろ』じゃなく『ここで逆取ってドリブルしたらおもしろいよね』とか、『あえて狭いエリアでパスを出して、それがゴールにつながったらワクワクするよね』みたいな。相手をどう騙してからかうかを考えて、でもふざけてそれをやるわけじゃなく、全力で楽しんで笑いながら真剣にやる。サッカーの楽しさ、サッカーの“遊び方”を教えてくれる場所でした」
ボールを使って全力で遊び、勝負にも勝つ。
全国優勝が常のシビアな環境に身を置き、サイドハーフやウイングなど攻撃的なポジションで信頼を得た和田は、その技術を高めていった。
ジュニアユースで主力として活躍し、無事にユースへの昇格を叶えた和田は、1年生ながらも早々に試合のメンバーに選ばれ順調な高校生活をスタートさせた。
2年生になると監督からの要求が厳しくなり、サブに回る試合が増えポジションを失いかけたものの、最終学年に進級してすぐに思いがけないチャンスが訪れる。
「3年生になった時に、トップチームからサイドバックができる選手を昇格させたいというオーダーがあったらしく、ユースの監督から『トップに上がりたいなら、やってみるか?』と言われたんです。前でプレーしてきた時間が長かったし、最初は正直戸惑いましたけど試合にも出たかったし、もうとにかくやってみようという気持ちでした」
慣れないポジションで試行錯誤しながらも、公式戦をほぼフル出場で戦った和田は、当初の予定通りサイドバックとしてトップチームに昇格。
1年目の2009シーズン、開幕スタメンに抜擢された。
「その時の監督は高木(琢也)さんでしたけど、開幕戦のあとも何試合か先発で出し続けてくれたんですよ。結果を残すどころか迷惑ばかりかけていましたけど、高木さんにも周りの先輩たちにも感謝しかないですね」
和田の選手キャリアに大きな影響を与えたのが、プロ3年目でのボランチへのコンバート。
監督を務めていた川勝良一氏に構想を伝えられた時の衝撃は、今でも忘れられないという。
「高木さんも大胆な監督だと思うんですが、あの頃の僕をボランチで使おうと考えた川勝さんは、もっとすごい(笑)。セカンドボールを回収するために、球際の強い選手を使いたかったのはわかりますけど、それでも僕にやらせようとは思わないだろうと。本当にびっくりしましたね」
不安はありつつも持ち前の順応力を活かして実戦を重ねるうちに、いつしかサイドバックよりも自信を持ってプレーができるようになった。
「この時はまだ全然ゲームメイクの能力も足りなくて、ひたすらボールを奪って近くの人に預けて……。という感じでした。でも、けっこうやれるなという感覚を掴み始めていたし、このポジションでもっとできることを増やしていきたいなと思っていました」
これまで、“今”にフォーカスし続けてきた和田に、自身のキャリアの“未来”を見据えた明確な目標ができた瞬間だった。
自分は、この先もボランチで勝負したい──。
ところが、その想いとは裏腹に2010シーズン以降は定位置がサイドバックに戻り、東京ヴェルディからベガルタ仙台、大宮アルディージャ、サンフレッチェ広島と渡り歩くも、ボランチで試合に出続けられたシーズンはなかった。
しかし、キャリアもベテランに差し掛かるプロ11年目を迎えた2019シーズン。
アンジェ・ポステコグルー氏(現トッテナム・ホットスパーFC監督)率いる横浜F・マリノスに期限付き移籍したことをきっかけに、再びボランチでの地位を確立することとなる。
「最初はマリノスでもサイドバックが足りないということでオファーをもらったんですが、怪我人が復帰してからは出番がなくなってしまったんですよ。でも、途中からアンジェの新しい戦術にハマって、ボランチで試合に出られるようになりました。状況判断や、ライン間でパスの出しどころや受けどころを作るといった今のプレーができるようになったのは、この1年があったからです」
今や世界最高峰のプレミアリーグで指揮を執る戦術家のもと、ついにボランチとしての才能が開花。
2019年12月7日に行われたJ1最終節、2ボランチの一角として先発でピッチに立った和田は、先制点をアシスト。
2点目も起点となるスルーパスを供給し、クラブ史上4度目のリーグ優勝に貢献した。
自身初のJ1でのタイトルを獲得し、2019シーズンは和田にとって、いち選手としての可能性が広がったかけがえのないシーズンになった。
ただこの1年を通して、和田はもうひとつ大事なことを学んだという。
「たしかに、個の能力を高めることや戦術の練度は大事なポイントです。でも、一番大事なのはそれを徹底して、チーム全員が同じ方向を向くこと。自分も出られなかった時間のほうが長かったですけど、メンバー外の選手も含めてあそこまでまとまれていたチームはなかったんじゃないかなって思います」
どんなにこの能力が高い選手がいたとしても、一番強いのは組織として戦えるチーム。
だからこそ和田は、2022シーズンに横浜FCの一員になってからの2年間、“チームの力”を最大化するために、自分にできることは何かを模索し続けている。
「とくにJ1リーグを戦った昨シーズンは、もちろんバラバラだったわけではないし徐々に向上はしていたけど、道半ばで終わってしまった。2022シーズンも本来この横浜FCがもつ力を最大値まで引き出せたかというとそうではなかったと思うし、もっと勝てたんじゃないかなって。そこを落とし込むことが自分がこのチームに来た役割だと思っているので、この2年での反省を活かして、より意識して若い選手に伝えている部分ではあります」
再びJ1昇格を目指す今シーズン。
具体的には、周りの選手たちにどんな声かけをしているのか。
「僕が言えることとしては、たとえば『協調性も能力の一つだよ』ということ。選手としてのレベルが上がれば、周りとうまくやれる能力も自然と高まる。それも含めて技術だという話をすることは多いですかね。それは自分自身が、ひとりだけで何かができる選手ではないからこそかもしれないです」
自分は個人の力で得点やアシストを生み出す、あるいは何ゴールも失点を防ぐといった選手ではない。
でも、脇役と主役がそろってひとつの物語が出来上がるように、サッカーはそれぞれの役割があって成り立つものでもある。
「“いないと困る”絶対的な存在ではないかもしれないですけど、この横浜FCでも“いたら助かる”と思ってもらえたり、そういう役割を担う意義を他の選手にも知ってもらえたらうれしいですね。あとは昔よりも言語化能力は高くなっているので、チームとして戦って優勝する喜び、自分が知るサッカーの楽しさを伝えていきたいです」
チームを支える“縁の下の力持ち”が、横浜FCのポテンシャルを押し上げる。
神奈川県藤沢市出身。1990年7月28日生まれ。170cm、63kg。明治サッカースポーツ少年団でサッカーを始め、練習参加から東京ヴェルディジュニアユースに加入。サイドハーフで力を発揮しユースでも主力として活躍。高校3年生からサイドバックに転向しトップチーム昇格を叶え、2009シーズンの開幕戦でプロデビューを果たした。プロ3年目にはボランチでのプレーに挑戦し手応えを掴むも、翌シーズンからは再びサイドバックに戻り、ベガルタ仙台 、大宮アルディージャ、サンフレッチェ広島を渡り歩いた。2019シーズンに横浜F・マリノスへと期限付き移籍で加入すると、再びボランチとしての出場機会を増やしJ1優勝に貢献。2020シーズンから完全移籍に移行し2シーズンマリノスでプレーし、2022シーズンに横浜FCに加入した。両サイドバックとボランチを遜色なくこなすユーティリティ性、球際の強さを生かしながら、ボールを循環させゲームをコントロールする。