横浜FC

 

晴天のニッパツ三ツ沢球技場は笑顔に包まれていた。

 

 

出場したレジェンドたちも、埋め尽くした観客も、そしてこの日の主役である中村俊輔も。2023年12月17日に行われた「中村俊輔引退試合~SHUNSUKE NAKAMURA FAREWELL MATCH~」。錆びついていない左足から繰り出すフリーキックを含め、何度もゴールネットを揺らした。ここに集まった誰もが、至福の空間のなかにいた。

 

 

「僕の師匠と言ってもいい(川口)能活さんを反対側のチームにメンバリングさせてもらって、引退試合といえども能活さんも真剣勝負をしてくれましたし、1点目(のFK)は入ってないんじゃないかと思いますけど、(止めたのは)さすがだな、と。だから2本目はもっと力を入れてやりましたし、そういうのが楽しかったですね」

 

 

小学生のころから「特別の場所」だった三ツ沢の地で、サッカー小僧に戻ったひととき。試合後の会見でもその余韻を噛みしめているかのようだった――。

 

 

ただ見るんじゃなくて観る、を大事に。

横浜FCトップチームコーチ 中村 俊輔

取材・文=二宮寿朗

 

1年前、中村はプロ26年間のキャリアに終止符を打ち、現役最後のクラブとなった横浜FCに残ってトップチームのコーチに就任した。引退から間を置かず、そのまま指導者の道へ進んだ。グラウンドに入ってプレーするのが日常ではなくなった現実に、最初はどことなく違和感があったという。

 

 

「これまで練習時間にずっとボールを蹴っていたのになかなか触れられないし、練習が終わったら今度は机に向かって(2部練習のとき)若い選手の練習や(試合当日における)メンバー外の選手の練習を考えたり、スタッフでミーティングしたりと座ることが多くなった。あまりに慣れなさすぎて最初のころは正直戸惑った。セットプレーとかやることも増えてきて(1年通して)段々と慣れていった感じはある。ヨモさん(四方田修平監督)はこれだけやってという人じゃないし、自由と責任を持たせてくれるからやり甲斐がある。監督が考えることを共有して、自分に何ができるかをいつも探しながらやっていった」

 

監督を補佐していく”フォロワー”として、どんなことができるのか。日々のトレーニングのみならず、常にアンテナを広げて行動に移そうとする彼の姿があった。2年ぶりに復帰したJ1の舞台において、開幕から勝てない時期が続いた。

シーズン通して胃が痛くなるような残留争いに身を置くなか、現役時代の経験と照らし合わせながら選手たちと向き合った。

 

 

「自分には指導歴がない以上、過去を引っ張り出してくるしかない。Jリーグでも(残留争いを)経験してきたけど、参考になったのは(イタリアの)レッジーナ時代。当時世界最高峰と言われたリーグのなかで常に残留争いにあったから。チームの雰囲気とかひとりひとりのメンタリティがどうだったかを重ねた」

 

 

結果が出ないとどうしても下を向きがちになる。ネガティブな声掛けよりも、前向きにさせようとしていく。

 

 

「たとえばカプリーニには個の力があるから、本人のプレーを動画で振り返って『これは凄くプレーとして効いていた』と言ってあげる。監督、ファーストコーチだったらプレーのことをもっと細かく指摘するけど、自分の立場ではそこまで言えないし、ああしたほうがいい、こうしたほうがいい、じゃなくて『これ、いいプレーだから、もっとこうしていけばどう?』とか言いながらどんどん動画を見せていく。マルセロ(ヒアン)にもそうだし、前線の選手には1カ月に1度とか定期的にそのようにやっていた。ほかの選手に対しても何気ない会話のなかで良かったプレーを伝えて、自信を持ってもらったりして。一人挙げるなら(井上)潮音。メンタル的に凄く成長したんじゃないかと感じている」

 

しっかりとした信頼関係を築くには時間が掛かる。

 

 

そのためにはむしろ言葉よりも大事にしたことがあった。

 

 

 

観る、把握する――。

 

 

 

シチュエーションや選手それぞれの性格に合わせて個別に対応しようとした。試合に負けて落ち込んでうなだれている選手に対しては気持ちを切り替えさせるために短くて励ますような声掛けをする。逆に落ち着いている選手であれば試合後のタイミングで意見交換する場合もある。日頃から選手たちを観察し、把握しておくことで、効果的なアプローチを探った。

 

 

試合に出ている選手のみならず、試合になかなか出場できていない選手に対してもそうだ。現役最後の数年間は中村自身も出場機会をなかなか得られなかった。選手たちの心情は十分に理解できる。その経験は指導者になって活かされている。

 

 

「いつも自分が2番手、3番手という気持ちで練習をやっていると、気づかないうちにメンタルが沈んでしまいがち。そこに耐久性がある選手ばかりじゃない。ここはちょっとでも手助けできれば変わってくる可能性がある。モチベーションを維持して自分をコントロールできる選手であれば伸びるし、そうでない選手との差がぐっと開く。プロなんだから結局は自分で這い上がっていくしかない。みんないいものがあるんだから、促していければいいし、そういう手助けができればいい」

 

44歳まで現役を続けたために指導者として急ピッチで習得する必要性を感じていた。時間があればジュニアユースの練習にも顔を出している。育成に携わる指導者の振る舞いひとつひとつをじっくりと観察することで、新たな発見にもつながっていく。

 

 

「見守りながらチームを整えていく作業のトップチームと、選手を育てていくことがメインの育成組織では指導法も違うので、自分に足りないコーチングスキルを学ぶこともできる。全体で獲得したいことを逆算してどのようにアプローチしていくのか、練習中にどのタイミングで止めて言葉で伝えるのか、それが成り行きなのか逆に狙ってなのか。その場合、どのような現象が起きているか。ただ見るんじゃなくて観る。それを心掛けているつもりではいる」

 

 

気がつけば朝から夜になるまでずっとグラウンドとクラブハウスにいたこともしばしば。自宅に戻ってからも欧州の試合がやっていればチェックする。「指導者1年生」として貪欲に学んでいく日々――。

 

 

JFA指導者A級ライセンス講習も、貴重な学び場になったという。

 

 

「B級(の講習)まではある程度基本が中心になっている印象で、A級になれば自分の色とか考え方を盛り込める。高い位置からの守備がテーマになった場合、もうGKから(守備の)スイッチを入れる人もいれば、ジワジワと追い込んでいく人もいる。そこに正解はない。いろんな人から、いろんな考え方を学べる。これは現役時代と同じだけど、本当にいい勉強になっている」

 

 

日々感じつつ、学びつつも、立ち止まって考えている時間はない。残留争いにあるクラブのコーチとして良かれと思ったことを実践に移していった。

 

 

「このクラブにとっても自分にとっても2023シーズンが難しい1年になったのは事実。でも1年のなかにいろんな流れがあって、それを観たり感じたりして経験できたのは大きかったし、収穫しかない。自分ができたこと、できなかったことを整理して、反省すべきところは反省して、改善して2024シーズンに活かさないと意味がない。そこは現役のころと感覚としては同じかもしれない。」

 

 

「選手たちを常に観て、高いモチベーションを維持してもらって、ヨモさんやほかのコーチがなかなか目の届かないところを自分が見つけてしっかりやっていかないといけないなとは思っている。自分に矢印を向けて、指導力をもっともっと上げていきたい。」

 

 

引退試合を終え、再び指導者の顔へと戻っていく。

 

 

2023シーズンの経験を踏まえて、新しいシーズンへ。

 

 

正解かどうか分からずとも、1年を通して得たプライスレスの実体験こそが「指導者・中村俊輔」の土台をつくったことは間違いない。

 

 

PROFILE

中村 俊輔(なかむら しゅんすけ)

神奈川県横浜市出身。1978年6月24日生まれ。4歳の時に横浜深園SCでサッカーを始める。中学進学後、日産FCJrユースのセレクションに合格し、2度の全国制覇を経験するもユースへの昇格は叶わず。桐光学園高校への進学を決断。2年次で全国高校サッカー選手権大会に出場、3年次にも同大会への出場、準優勝に貢献した。卒業後、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)へ加入し、プロ初ゴールをニッパツ三ツ沢球技場で決める。2002シーズンからは自身の活躍の場を海外へ広げ、イタリア、スコットランド、スペインの地で活躍。セルティックFC(/スコットランド)在籍時にはリーグ優勝と国内カップ2冠を達成。2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではマンチェスターユナイテッド戦で代名詞のフリーキックを決め、世界にも魔法の左足を披露。横浜F・マリノスへ復帰後、史上初となる2度目のJリーグMVPを獲得する。2017シーズンにジュビロ磐田への移籍を経て2019シーズンに横浜FCへ加入。自身初のJ2リーグでも存在感を見せつけ、2022年10月17日に現役引退を発表。2023シーズンよりは横浜FCでトップチームコーチに就任。指導者としてのキャリアをスタートさせる。