「このチームに来て、一番衝撃を受けた」
今シーズン横浜FCに加入したベテランMFの駒井善成が、名指しで太鼓判を押すのは、大卒2シーズン目を戦う小倉陽太だ。
「僕は、ユースのチームメイトだった斉藤光毅(現・クイーンズ・パーク・レンジャーズFC/イングランド2部)のような、特別な選手ではありません。だから、みんなのいいところをちょっとずつ集めた“ハイブリット”な選手になれたらいいな、と」
謙虚な姿勢でありながら、誰よりも貪欲な目標を語る長身ボランチは、今シーズン自身初のJ1に挑み、その存在感を発揮している。
長い手足と球際の強さを活かした守備、長短のパスを駆使したゲームの組み立て、一瞬の隙を突くミドルシュート……。
次々と武器を手に入れ、自身の価値を高める“HAMABLUEの新たな心臓”が、J1の舞台で輝きを放つ。
謙虚に、貪欲に。ヒナタの覚悟
小倉陽太 MF 34
取材・文=北健一郎、青木ひかる
今でこそ“クール”という言葉が似合うものの、「昔はあまり言うことを聞かず、やんちゃだった」という小倉が、サッカーと出会ったのは物心ついたばかりの4歳の頃。
通っていた幼稚園が開催していたスクールに興味をもったことがきっかけだった。
「最初は『ゴールを決めたら、カードゲームをやっていいよ』という母親の言葉がモチベーションになっていました(笑)。そこからだんだん、サッカーの楽しさがわかってきて、どんどんのめり込んでいきました」
当時から身長も高く、並行してプレーしていたフットサルで磨いたボールテクニックは、高く評価されていた。
ただ、「プロサッカー選手になりたい」という明確な目標をもっていたわけではなかったという。
「正直、サッカー選手という存在が自分にとっては遠すぎる夢で、“目指すもの”だとはまだ思えなかったんですよね。ただ、今よりもうまくなりたい。それ以上でもそれ以下でもなかったかなと思います」
Jリーグに触れる機会も少なかったという小倉だったが、加入していた少年団のチームメイトの“お誘い”で、人生が大きく変わることになる。
「一人、横浜FCのサッカースクールにも通っているチームメイトがいて、その子のお父さんが『ヒナタくんもどう?』と誘ってくれたんですよ。なるべく高いレベルでプレーしたいという気持ちは強かったのでいいなと思って、5年生から通い始めました」
そして、中学進学のタイミングでジュニアユースのセレクションを受験。
スクール生限定の試験に一度は落ちてしまったものの、一般枠でリベンジし、合格を勝ち取った。
「もっとサッカーがうまくなりたい」
その一心で、Jクラブの育成組織の一員となった小倉だが、同年代の選手のプレーのクオリティと、プロを目指す意識の高さに圧倒されたという。
「今まで自分が強みとしてきたところが全然通用しなくなって、最初は試合にも出られたり出られなかったりでした。初めてJクラブの育成組織がどういう場所なのかということを肌で感じさせられました」
それでも小倉は自分の力不足を受け止め、どこでなら力を発揮できるのか、チームに必要なことは何かを徹底的に分析した。
そして、行き着いた先が「守備での貢献」。
小学生の頃から培ってきたビルドアップ能力の高さに磨きをかけるほか、球際の強度やボール奪取力の強化に取り組み、センターバックのポジションで地位を確立した。
「ジュニアユースでは1年ごとに監督が変わって、いろんな監督にお世話になりました。なかでも、1年生の時にチームの中で一番下手だった僕を見捨てずにいてくれたトモさん(小野智吉/現・横浜FCジュニアユースU-15監督)と、トモさんが試合に来られなかった日に、僕をセンターバックで起用してくれたハヤさん(早川知伸氏/現・松本山雅FC監督)がいなかったら、今の僕はいません」
攻守両面で「うまさ」だけでなく「強さ」を身につけた3年間は、プロになった今にもつながる、小倉の礎となっている。
ジュニアユースで主力選手となった小倉は、「できることをしっかりこなす」実直なプレーで、順当にユースに昇格。
センターバックもこなせるボランチとして、成長を遂げた。
一方、寡黙で冷静沈着な性格を誰よりも理解した上で、時には大胆に「自分の殻を破ること」を求めていたのが、中学3年生から高校3年生までの4年間、監督を務めた小野信義氏(現・U-16日本代表監督)だった。
「チームメイトの誰に聞いても満場一致で、僕が一番信義さんに怒られていたと言うと思います(笑)。当時のチームには圧倒的エースの斉藤光毅がいました。だから、『オグも頑張れ』という、エールだったんだろうな、と。でも、光毅とは性格もプレースタイルも全然違うし、僕には僕のペースがある。どうしたらいいのかなという気持ちは、正直ずっとありました」
その戸惑いとは裏腹に、斉藤がトップ登録されユースチームを離れた半年後の2019シーズン、小倉はキャプテンに任命された。
結果として横浜FCユースは、「プリンスリーグ残留」の目標どころか、プレミアリーグ昇格を達成。小倉自身も、主力選手の一人として成果を出せた手応えはあった。
しかし、“キャプテン”としてのあり方は、最後まで疑問が残った。
「僕よりもコミュニケーション能力も高く、『キャプテンマークを巻きたい』という選手は、いくらでもいました。それでも自分が担う意義はあるのか……。結局答えは見つからないままでした」
「ポテンシャルがあるというのは、たしかなんです。ただ、もう少し自分がチームの軸であるという自覚や責任感を持って、堂々としたプレーや振る舞いで、みんなを引っ張っていける選手になってほしい……という思いがありました。ギリギリのところでしたが、高卒でのトップ昇格を見送る形になりました」
持っている才を見抜いていたからこそ、厳しい声をかけ続けてきた小野氏は、当時の小倉の評価とキャプテンを任せた真意を明かす。
惜しくも高卒プロ入りを逃し早稲田大学へ進学した小倉だが、小学5年生から過ごしてきた環境から離れたことをきっかけに、少しずつ自分のなかで変化が生まれ始めたと、大学4年間を振り返る。
「ユースではよく知っている選手同士、言葉にしなくても伝わることがたくさんありました。でも大学生になって、少しずつ誰かに自分の考えを伝えたり、周りに意見を聞いたりという機会が自然と増えました。大学でなにが身についたか?と言われると、『コミュニケーション能力』と答えますね(笑)」
なかでも思い出に残っているのは大学4年生の夏に行われた、第74回早慶サッカー定期戦。この試合は、横浜FC公式サイトのプロフィールに、「人生のベストゲーム」として挙げている一戦でもある。
「早稲田ってすごく学生主体のチームで、最高学年が戦術や練習メニューを考えるんですよ。だから、4年生になるとより『自分たちの代』という色が強くなるんです。僕も僕なりにチームの中核という意識を持って取り組んでいたなか、伝統のある試合で勝つことができたのは、すごくうれしかった。珍しく感情的になった試合でした」
「落ち着き」に加え、4年間を経て「頼もしさ」を増した小倉は、いくつかのJクラブから声がかかるなか、クラブとして初の“アカデミー出身大卒ルーキー”として、横浜FCに戻ることを決めた。
5年ぶりに横浜FCのユニフォームに袖を通すことになった、2024シーズン。
即戦力としての活躍が求められることは自覚しつつ、前年からチームを支えた井上潮音とユーリララからポジションを奪うことは、決して簡単なことではなかった。
それでも、「2人のいいところを両方もっている選手」を目指して努力を重ね、リーグ終盤にかけて徐々に出場時間を伸ばした。
序列が上がるきっかけとなったのは、JリーグYBCルヴァンカップでのゴール。
デビュー戦となったファジアーノ岡山戦でプロ初得点となったミドルシュートは、ファン・サポーターのみならず、コーチングスタッフも驚く1点となった。
「実はあの試合の何週間か前から練習でもミドルを決めていて、いい感覚はありました。ただ、公式戦でもいつもより前に出ていって、シュートという選択をして決めきれたことは、成長と言えるのかなと思います」
そして、プロ2年目となった今シーズン。
小倉は開幕スタメンをつかみ取り、第4節終了時点で連続出場を記録している。
「リーチもあって、守備で相手を潰し切るだけじゃなく、すぐにターンして前向きにプレーできる選手はなかなかいない。小倉自身の努力次第では、世界でも活躍できるようなトップクラスの選手になると思っています」
現在、ボランチでコンビを組む駒井善成の言葉を伝えると、「言い過ぎです」と小倉は照れ臭そうにはにかむ。
その笑顔には、自信と充実感が伺える。
「今シーズンはコンディションもすごくいいし、納得いくプレーも増えています。まだまだなところもありますけど、J1でどこまでやれるのか楽しみです。必ずチームをJ1に残留させて、個人としても飛躍のシーズンにしたいです」
“HAMABLUE育ち”の逸材は、秘める野心を静かに燃やし、J1の舞台で輝きを放つ。
4歳でサッカーを始め、小学5年生から横浜FCサッカースクールのアドヴァンスコースに通い始めた。セレクションを経てジュニアユースに加入し、ユース昇格。高校3年時にはキャプテンを務め、高円宮杯プレミアリーグ昇格を果たした。卒業後は早稲田大学に進学し、センターバックもこなせる守備的MFとして活躍。2024シーズンに横浜FCの加入が決定し、アカデミー出身者で初めて「大学経由」でクラブに戻ってきた選手として、注目を集めた。長い手足を生かしたボール奪取と巧みなパスワークに加え、ミドルシュートも決められる多才な大型ボランチとして、現在急成長中。