横浜FC

 

「タカらしいプレーをどんどんピッチで見せてほしい」

 

 

コーチングスタッフをはじめ、共に戦うチームメイトも、さらなる活躍に期待を寄せるのが、大卒1年目のサイドアタッカー・遠藤貴成だ。

 

 

プロデビュー後の半年間での「ベストゲームだった」と本人も話す、YBCルヴァンカップ3回戦のFC町田ゼルビア戦では、日本代表経験のあるディフェンダーを振り切り、スタンドを何度も沸かせた。

 

 

「実力がある相手を前にすれば、やっぱり怖い。それでも、チャレンジして突破するのが僕の役割です」

 

 

ボールを持った瞬間が、攻撃開始の合図。

 

 

新進気鋭の“仕掛け人”が、スタジアムに大歓声を巻き起こす。

 

“何度でも、何度でも”

遠藤貴成 MF 39

取材・文=北健一郎、青木ひかる

普段はやんちゃ、サッカーではエリート

日韓ワールドカップが行われた2002年、新潟県の都市部である新潟市で、遠藤貴成は生まれた。

 

 

今でこそルーキーとは思えない落ち着いた振る舞いが印象的な遠藤だが、幼少期は「けっこうやんちゃだった」そうだ。

 

 

「姉が2人いるんですけど、2つ上の姉とは毎日のように喧嘩をしていました。幼稚園とか学校でも先生に反抗することもあったし、勉強も全然得意じゃない(笑)。問題児でした」

 

一方、友人からの誘いで7歳から始めたサッカーでは“エリート”だった。スクールに参加したところ声がかかり、県内有数の街クラブであるグランセナ新潟FCのジュニアに加入した。

 

 

1968年のメキシコ五輪で日本を銅メダルに導いた、伝説のストライカー・釜本邦茂さんがスクールマスターを務め、グラウンドで直接指導を受けたこともあった。

 

 

「すごい人だという認識はしてましたけど、たまに来る『厳しいおじちゃんコーチ』と思ってましたね。クラブが運営する大きなグラウンドもあって、自分にとっては毎日通った思い出の場所です」

 

 

頭角を表した遠藤は、ナショナルトレセンのメンバーにも名を連ね、同年代の選手たちとしのぎを削り合った。そして中学校進学時には、アルビレックス新潟U-15への“移籍”を決めた。

 

 

「最初はそのままグランセナのジュニアユースに上がろうと思っていました。だけど、トレセンで一緒にやっていたメンバーがアルビレックス新潟へ行く選手が多いと聞いて、自分も同じチームでプレーしたいなという気持ちが出てきて……。グランセナの“ライバル”だという気持ちも強かったので、すごく悩みました」

 

 

最大の決め手となったのは、当時から“新潟の至宝”として一目を置かれていた、本間至恩の存在だ。

 

 

「実際加入が決まって、初めて至恩くんのカットインからのシュートを間近で見た時は、衝撃を受けました。当時からU-15の日本代表に選ばれていて、雲の上のような存在でしたけど、彼のように『自分の力でチームを勝たせる選手になる』ことが、僕の目標になりました」

 

“天狗”からの脱却

アルビレックス新潟U-15に入ると、同学年の試合だけでなく1年生の頃から上の学年の練習や公式戦にも飛び級で参加していた。

 

 

しかし、3年間ずっと一番手を走り続けることはできなかった。

 

 

「正直、中1の頃は北信越でも一番と言えるくらいの実力はあったと思います。ただ、ちょっと“天狗”になってしまったところがあるかもしれません。2年生になってからは、選抜からも外れることが増えてしまって、『新潟を出ないとダメだ』と思わされました」

 

 

外の環境で揉まれなければ、これ以上の成長はない──。

 

 

強い危機感を抱いた遠藤は、環境をガラリと変えるため、高校サッカーで3年間プレーすることも視野に入れながら進路先を模索しはじめた。

 

 

そして、全国高校サッカー選手権を現地観戦をするうちに目に留まったのが、東福岡高校だった。

 

 

「実は東福岡の試合は(髙江)麗央くんと藤川虎太朗くん(AC長野パルセイロ)を見に行きたかったというのが、一番の目的だったんです(笑)。本当は関東近辺の高校を選ぼうと思っていたんですけど、『ここだ』とピンときて進学を決めました」

 

 

アルビレックス新潟からはユース昇格も打診されたが、遠藤の決心は揺らがなかった。生まれ育った新潟を離れ、遠い九州の地に足を踏み入れた。

 

未熟さを痛感した、空白の8か月

 

実力主義のユースとは異なり、上下関係の厳しさやフィジカル重視の風潮を覚悟の上で、遠藤は高校サッカーの進路に進んだ。しかし、「人生で初めて挫折を味わった」と高校3年間を振り返る。

 

 

2年生に進級した直後の4月のこと。遠藤は大きなミスをしてしまう。

 

 

「プレミアリーグ(高円宮杯JFAU-18サッカープレミアリーグ)のアウェイの試合の日に、間違えてホームのユニフォームを持ってきてしまったんです。ベンチに回されたのですが、素直に反省できず、反抗的な態度をしてしまって……。本当に子どもだったなと思います」

 

 

それから8カ月間、ベンチにも入れない日々が続いた。自分と向き合う中、次第に湧き上がってきたのは、「試合に出たい」という純粋な思いだった。

 

 

誰よりも練習に取り組む姿勢は監督の目にも留まり、2年生の12月にはリーグ戦で先発に復帰。3年生になってからは、レギュラーに定着した。

 

 

「一番の思い出は、最後の選手権(全国高校サッカー選手権大会)の県予選決勝で、0-0の状況で試合終盤にゴールを決めて、優勝できたことです。前の年は県予選で負けてしまっていたし、自分のゴールで全国大会出場を決められたのは、本当に嬉しかったです」

 

 

楽しかった時間よりも、苦しかった時間のほうが長かったかもしれない。それでも高校3年間は、かけがえのない財産となっている。

 

恐れずに、何度でも

足りないものを追求し、より高い環境に身を置きながら、遠藤は選手としても人間としても成長してきた。

 

 

大学進学の際も、悩んだ末に「4年間一度も試合に出られないかもしれないと感じた」桐蔭横浜大学への進学を決めた。

 

 

「セレクションに合格はできたんですけど、絶対についていけないから、違う大学に行くつもりでした。でも、いろんな人に相談して考え直して、他の大学で試合に出てプロに行けなくて後悔するよりも、レベルの高い場所で揉まれて1試合も出られずに終わったほうが、諦めがつくかな、と」

 

 

大学でも、熾烈なポジション争いに加え、3年生の勝負の年に怪我で戦線を離れるなど、決して順風満帆とは言えなかった。それでも、あえて難しい道を選び、もがいてきたからこそ、遠藤は今、“ハマブルー”のユニフォームをまとい、J1の舞台に立っている。

 

 

8月16日に行われたヴィッセル神戸戦では、初めてリーグ戦でスタメン出場し、79分まで堂々とプレーした。

 

 

試合後、三浦文丈監督は果敢に仕掛けたルーキーへの期待を口にした。

 

 

「チームからラッキーボーイ的な存在が出てこないと、連敗の局面は変えられないと感じていました。タカ(遠藤)は、劣勢でも試合に出て、流れを変える力も見せてくれていた。もっとやれると思うし、これで満足せずに、どんどん力を示してほしいですね」

 

 

自分の力で、チームを勝たせる選手になる--。幼い頃に描いた理想の選手像は、今も変わっていない。

 

 

「何度でも仕掛けるのが僕の武器だし、求められていることだと思っています。なのでこれからも恐れずに。まだアシストやゴールを生み出せていないので、早く数字を動かせるように頑張ります」

 

 

22歳のドリブラーは、怯まず突き進む。横浜FCの勝利のために。

 

PROFILE

遠藤貴成/MF 2002年10月19日。172cm、67kg。

7歳でサッカーを始め、グランセナ新潟FCジュニアに加入。ナショナルトレセンにも選出された。中学進学後はアルビレックス新潟U-15の一員となり、U-14Jリーグ選抜として参加したゴシアカップで3得点を決めた。高校年代ではJユースの環境を離れ、東福岡高校で3年間プレー。桐蔭横浜大学に進学後、2025シーズンに横浜FCへの加入が決定した。右サイドを主戦場に、切れ味鋭いドリブルとカットインで相手の守備網を突破し、J1残留への道を切り開く。